聖母被昇天の祝日
[靖国通りでは、朝から街宣車が騒がしい。自宅周辺も機動隊がでている。年に一度の戦没者を追悼する日にまで、拡声器でがなりたてるとは何事だろうか。きょうは静かに祈る日だと思っていたが、静謐な祈りを妨げて、騒ぐ彼らは「唯物論者」なのだろうか。まったく死者に対して失敬だ。
中国政府が靖國神社の問題を政治的に利用しようとしていることについて非難する連中も、結局のところ、自分たちの政治的主張のために靖國神社の問題を利用している。政治的主張の中身は違うが、他人の信仰を政争の具にする方法論としては同じだ。
暑い最中、我が家を含む靖國神社周辺に総動員されていた警備・公安の皆さん、本当におつかれさまでした。
自宅から教会まで歩いていく途中、靖國神社の裏を通るのだが、警備の警察官に背後から呼び止められた。前を通ったんだから、前から声をかければいいのに、なんで後ろから声をかけるのだろうか。そういうテクニックでもあるのだろうか。
ところで、神田教会は司祭巡礼中のため休みなので、麹町教会の聖母被昇天のミサに与ることにした。
年に何度か麹町教会に行くのだが、いつも「この教会の典礼は革新的で落ち着かない」と感じる。まるで、プロテスタント教会のようだ。昔で言う「下級聖品」がすべて女性ということも、この教会の典礼では当然のように行われている。(それどころか、あるとき、典礼で女性からご聖体を受けていいものか、非常に戸惑った(パニック)。)こういうことは、慣れれば何ら違和感を感じなくなるのだろうか。こういう環境で育つ子どもたちは、大人になった頃には「女性司祭」がいても当然と思うかもしれない。457年前の8月15日に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、こんな状況を想像すらできなかったと思う。
それでも、説教の中身は正統な信仰だったし、ご聖体もいつもと何ら変わらないので、ほっとした。説教では、被昇天のドグマや、8月15日の信心が、東方の霊性に由来することを繰り返し強調していた。典礼は違っても、信仰は一つだということを、改めて確認した一日だった。

こんなにいい席で、しかも無料で観戦できるんですから、靖國神社と相撲協会は、ふとっぱらですね。