靖国神社
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靖国神社が、右翼の駐車場と化していた。多くの街宣車で入り口が固められている。境内地の通路で街宣車が大音響で音楽を流している。こんなので、静謐な礼拝が保てるのだろうか? 宗教に対する畏敬の念がないのだろうか?
靖国神社が、右翼の駐車場と化していた。多くの街宣車で入り口が固められている。境内地の通路で街宣車が大音響で音楽を流している。こんなので、静謐な礼拝が保てるのだろうか? 宗教に対する畏敬の念がないのだろうか?
「心のともしび」マクドナル神父 から、こんなメールが。
皆様に1か月前から「心の糧」の話を毎日お送りしてしていましたが、3月から止めさせていただこうと思います。いろいろな問題が起こり、お送りすることが出来なくなりました。どうぞご了承ください。
一体、なにが起こったのか?
その、「心の糧」には、ときどき山谷えり子の文章が掲載されている。『心のともしび』(印刷物)2007年3月号にも、「エッセイスト 山谷えり子」の肩書きで載っている。私は、この人をカトリック教会の出版物に使うのは、どうかと思う。
カトリック信者にとって、山谷えり子の言動は、「つまずき」になる可能性がある。「女子パウロ会」や「心のともしび」が、どうしても山谷を使いたいというのであれば、「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)、「世界平和連合」(WPF)、「国際勝共連合」との関係を問い質してからでも遅くはないだろう。
この人は、カトリック教会を悪魔だと主張する「統一協会」から直接あるいは間接的に、政治活動の便宜を受けている。しかも、公然とカトリック教会の教義に反するようなことを言っている。
たとえば、ジェンダーや性教育についての発言だけを捉えてみても、文鮮明の教義に依拠するところが大きく、カトリック教会の主張とは異なる。さらに、国家と宗教のかかわりについては、教会の見解に真向から対立している。
去年、この blog で、統一協会が福井県の施設からジェンダー関連図書を撤去するよう、圧力をかけたことを書いたが、この事案にも、地元福井の議員である山谷が一枚かんでいると想像するに難くない。
さらに、神道の政治団体(神道政治連盟など)から公認、推薦されているが、そういう席上では、また微妙に違うことを言っている。(神道の人たちは、山谷えり子を警戒すべきだ。)
結局のところ、山谷えり子は、自己の政治的野望のためなら、カルトでもカトリックでも、神社でも、なんでも利用しようという魂胆なのではなかろうか? すくなくとも、言動が一致していないから、どうも信用できない。批判されるのがいやだったら、自身ではっきりと疑念を晴らしてほしい。
教育基本法改正案には、現行法にある自然法的な表現がごっそりと削除されている。「基本法」というわりには、思想的な基本が欠落している。糸永司教は、「立派な概念が散りばめられているが、メリハリがなく、全体を貫く基本理念がどうもはっきりしない。」と述べているが(「カトリック新聞」11月5日)、そのとおりだと思う。
公明党は、宗教家の政党のはずだが、なんで教育基本法改正に賛成しているのだろうか。多少文言を書き換えさせた程度で、妥協すべき問題ではないと思う。問題の本質を理解している議員は、一体どれくらいいるのだろうか。田中耕太郎が教育基本法と宗教の関係にについて何本か論文を書いているから、議員は一度読んでおくべきだ。
ついでに言っておくと、見城美枝子(中央教育審議会委員)は、カトリック教徒のはずだが、改正案を手放しで評価していた。「カトリック新聞」(!)紙上で 日本キリスト教団の牧師さんにまで批判されていたが、その後考えは改めたのだろうか。
教育基本法改正について、神社本庁を除く主だった包括宗教法人・団体は早々と公式に反対の立場を明確にしている。カトリック教会も、司教協議会社会司教委員会の名ではあるが、反対の立場を明確にしている(「教育基本法改定への懸念について」)。ふだんは世俗の問題について発言を控えている司教らも、個別に反対の立場を表明するようになってきた。
きょうの内閣メールマガジンに、こんなことが書いてあった。
戦後教育は、機会均等という理念のもとで国民の教育水準を向上させ、戦後の経済発展を支えてきました。また、個人の権利や自由、民主主義や平和
主義といった理念についての教育も行われてきました。しかし、他方で、道徳や倫理観、そして、自律の精神といったものについての教育はおろそかになっていた点はやはり否めません。
現在、子供たちのモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下といった問題が指摘されています。こうした中で、いじめ問題や未履修問題が相次いで表面化し、子供たちも保護者の皆さんも不安を抱き、教育再生の必要性をさらに強く感じているのではないでしょうか。
むしろ、教育基本法の理念を貫徹させていないからこそ、こういう問題が生じているのだと思うのだが。
海に平気で空き缶を捨てる子供に対しては、法律で禁止されていなくてもそうした行為は恥ずかしい、やってはいけないのだという道徳や規範意識を身につけさせることが必要です。
さらに、利益にならなくても、海に捨てられた空き缶を見つければ拾ってゴミ箱に捨てる、といった公共の精神を培っていくことも必要だと思います。
そんなことは、家庭や地域で子どもに教えるべき問題で、それで足りなければ、条例や法律で規律すればいいことだ。千代田区には、そのための「生活環境条例」がある。学校教育制度を使ってまで教えることではない。
教育は学校だけで全うできるものではありません。道徳を学び、自分を律し、人を思いやる心は、家庭や地域社会の中で人と人のふれあいを通して醸成されるものです。
おっしゃるとおり。
結局、改正の必要性や意義と、改正案との間の関連性が、ものすごく希薄に思える。こんな改正をしたところで、実効性があるのか、甚だ疑わしい。こんな程度の改正なら、今のままで十分だ。
教育の現場では、「伝統」文化を無批判に受け入れることと、郷土と国に対する無条件の愛を義務付ける根拠として、この法律を利用するのではないだろうか。現に、公立校で、「伝統文化」の名の下に、妻と子どもが、異教徒の儀式(practice)への参加を強制されたのだけれど、こういうことが、法律改正によって正当化されないか、不安に思う。
ロースクールで、学生と3時間(!)ほど「創価学会」について話し合う。
なぜローマの教皇に池田大作氏が謁見できなかったのかという話しやら、宗教と政治との関係(創価学会が目指すのは、 state church ではなくて、 church state なのではないか?)などもした。
カトリックの信徒が「聖教新聞」を読むことは、学会員にとって意外なことらしい。聖教新聞をはじめとする創価学会の出版物には、どうにも部外者にはわかりにくい「述語」や「登場人物」が多くて、そのあたりをまとめて質問してみた。「脱講」や「脱顕」の意味を初めて知った。
あらゆる方面から苦情がくることが予想されるので、差し障りのない「排他性」の問題と「透明性」の問題についてだけ、メモ程度に書いておく。
たとえば、創価学会と既存の仏教教団、特に日蓮正宗系の教団との間では教義に大きな差はないのに、なぜ互いに協力せずに、全面対決して批判しているのかということについて。
批難の応酬が続くと、すくなくとも外部には、創価学会と宗門の(真偽はともかく)「悪い噂」しか目に入ってこないから、これでは創価学会にとってはデメリットにしかならないのではないかと思う。(これでは、いくらメディア対策をしても、創価学会の「善行」が相殺されてしまうように思える。『聖教新聞』に「池田大作先生に名誉教授の称号!」とか書いてあっても、外部の人は読まないわけだし。)なぜこのことに、危機感を持っていないのか、私には、それが不思議でならないのだ。
妥協とまではいかないまでも、協力できる部分は協力しあって、国内の宗教団体とできる部分は対話するのがいいのでは、と思うのだ。大人だったら、ひとまず矛を納めるという作戦もあるだろうにと。たとえば、靖国神社の問題や憲法改正の問題、死刑廃止の問題などでは、国内のほぼ全ての宗教団体が協力しあっているが、なぜ創価学会は入ってこない、あるいは入ってこれない。最近では、日本のカトリック教会は、伝統的な仏教教派、神社本庁、新興宗教などとも対話と協力の機会をもっているが、創価学会とは公式な接点はない(大学の宗教研究では創価学会と接点がある。)。
伝統的な仏教教団は、宗派の違いを(鈴木大拙の用語でいう)「霊性」の違い、つまり、仏法というひとつの真理に至る手段、方法の違いとして理解し、互いの価値を認めあう方向で進んできたように思う。それぞれの重用する経典の違いは、それぞれの霊性を強く反映しているし、霊性の違いは、歴史的には布教の対象となった地域、社会階層、あるいは時代の特質を反映していると思う。
しかし、日蓮正宗系の教団の多くは、法華経を至上の経典として重視し、他の宗派の教義の価値を下級なものと見ているという(天台宗も法華経を重んじるが、四宗相承ということばがあるように、法華経原理主義とまではいえない。)。そこには、多様な霊性によって仏法を豊かにしようという思想が入り込む余地がない。このような排他性が、創価学会などが他と対立する原因のひとつとなっている。おそらく、日蓮正宗系の教団は、その霊性について、自ら考察したことがないのだろうと思うし、そのようなことを考える必要さえなかったのかもしれない。すくなくとも、今回話し合ってみてわかった限りでは、「創価学会の『霊性』とは何か」という問題について、創価学会自身は答えを持っていないようで、創価学会の内部で、そのことが話題になることはないということだった。
たとえば、創価学会と、いわゆる彼らのいう「日顕宗」との間の教義には大差がない(すくなくとも、キリスト教でいうところのドグマに相当する部分は同じ。)。互いの仲が悪くなった原因はいろいろあるのだが、誹謗中傷の類をぬきにして考えると、批判の根拠は、その実践や組織のあり方、つまり血脈相承の正統性や御書の細部の校訂と解釈といった部分であって(創価学会は僧職制度を全部否定しているわけではなくて、いわゆる日顕派とは離れつつも、日蓮正宗の講としての性格を保とうとする動きもあるという。)、いずれも自己の見解の正しさを、日蓮の言説によって証明しようとしている。もしこれが、教義の正誤の争いではなく、霊性の優劣の争いであれば、これほど対立は深刻になっていなかっただろうと思う。さらに、これがキリスト教でいうところの、「教理学」の問題なのか、あるいは「組織神学」的に把握できる問題なのかというような、「学問的」に区別ができる程度に自己分析がされていないこともあって、問題がより複雑になっているように思う。(ついでにいうと、仮に日蓮正宗がカトリック教会のように整備された教会法と行政システムを持っていれば、血脈相承の問題は起こり得えなかったと思う。)
つぎに、組織の透明性の問題。創価学会は宗教法人としては知事認証の「単立」団体なので、文化庁ですら、その教勢を把握していない。創価学会の内部でさえ、学会員が何人いるのか、資産が幾らあるのか、「正確に」知る人はほとんどいない。一方で、他の大きな宗教団体は、その教勢を外部に明らかにしている。たとえば、カトリック教会は、日本人(永住外国人を含む)の人数とその内訳を1人単位の実数で公表しているし、各教区の財務状態も細かい数字で公表している。
創価学会の教勢が明らかでないことは、外部に大きな誤解を生んでいる。たとえば、財務について。「創価学会に入るとものすごく金をとられる」のではないかという憶測。年間の収入を信者の数で割り算すれば、そのような憶測が生じる余地はなくなるだろう(ものすごく献金している人もいるけれど、それは例外的。)。もし嘘であれば隠さないと都合が悪いだろうが、真実であれば何も包み隠す必要はないはずだし、知られることを恐れる必要はないと思う。