人間よりも、聖書が大切。エホバの証人訪問記

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毎月2〜3回やってくるエホバの証人(以下「エホバ」という。)。他所を巡回されるくらいだったら、うちに来て散々喋っていってほしいので、何時間でも相手にすることにしている。きょうもやって来た。

哲学を否定するエホバは、論証方法が雑だ。三位一体を否定しようとして、こんなことを言ってきた。

1 「聖書全体は、神の霊感を受けたもの」(2テモテ3:16)。
2 神は、最高の存在。
3 だから、聖書には、神と同じく最高の権威がある。
4 最高の書物である聖書さえ読めばよく、人間の考えはすべて聖書に劣る。
5 「三位一体」や神であるキリストについては、聖書には書かれていない。人間が勝手にねつ造した考えだ。
 その後反駁されて、「神であるキリストについては、聖書の中では一貫して書かれていない。」にトーンダウン。
6 三位一体のような混乱を招くことを神が言うはずがない。

7 だから、三位一体も、神であるキリストの考えは、間違い。

まあ、3の段階ですでに論理の飛躍があるのだが、まあ、それはさておいて、疑問をぶつけてみた。

われ「じゃあ、神をあがめるように、聖書を崇拝しているのですか?」
エホバ「そうではないです。」
エホバ「神の霊感が与えられているのは、聖書だけ。だから至上の権威があります。」
エホバ「では、あなたは、聖書よりも権威のある、ほかのものがあるというのですか!」
われ(ははーん、軽蔑されている感じ。)
われ「聖書が成立する前にだって、神の啓示はありましたよね。モーセはどうでしたか? 十戒は、聖書よりも劣りますか?」
エホバ「それは、聖書に書かれていることなので、聖書と同じです。」
われ「つまり、聖書に書かれていないことは、聖書よりも価値がないということですか?」
エホバ「そのとおりです。」
われ「聖書を至上のものと見るのは、聖書を偶像として崇拝しているのと同じですはありませんか。それに、権威主義というのも、偶像崇拝です。」
エホバ「そんなことありませんよ。偶像崇拝ではありません。なぜならば、聖書は、神の権威そのものですから。」
われ「じゃあ、神と被造物である聖書は、同じ価値なんですね。」
エホバ「そうです。」
われ「だったら、三位一体の考えを否定することができませんね。」
エホバ「…」
われ「しかも、その考えだと、人間よりも、聖書が大切で偉いんだということになって、神の考えとは矛盾しますよ。」
エホバ「まちがいありません。人間よりも聖書が大切です。」
われ「……」(唖然。)

われ「人間は、神の似姿として、神が創造したんです。これは、認めますか?」
エホバ「そうでしょうね。」
われ「それなのに、神の霊感があったとしても、人間が、しかも人類が誕生するよりもずっと後に書いた、電話帳みたいな厚さの書物が、神の創造した人間よりも大切なのだと。」
エホバ「そうです。」
われ(唖然。)
われ「神は、人間の為に聖書を与えたのに、人間よりも聖書が大切だというのは、矛盾です。」
エホバ「そうではありません。聖書は神の命令ですから。神の命令が人間よりも大切です。」
われ「わたしはそうは思いませんよ。ここにある聖書よりも、目の前のあなたのほうが大切だと断言できますよ。でも、あなたは、私を、そうは思っていない。」
エホバ「そうです。聖書には、そう書いてありませんから。」
われ(がっかり。)
われ「聖書だけが、啓示ではありません。人類の存在そのものも、わたしたち一人一人も、神からの啓示です。この世界すべてが、神の創造物であり、自己や世界の存在そのものが、最大の啓示だといってもよいとおもいますが。」

ほかにも、「聖書のすべてが正しい」とか、「すべてが霊感によって書かれた」とか言っているので、エホバも参照している BHS や Nestle-Aland だって何度も改訂されていることや、写本の発見などで、使徒の時代よりもだいぶ後に書き加えられた部分があることを言ったら、

エホバ「知ってます。でも、意味は変わっていません。」
われ「たとえば、テモテやコリント書にある『女は静かに』(1テモテ2:12)や『女たちは黙っていなさい』(1コリント14:34−35)というのは、パウロの言葉でないことがわかっていますし、写本(ベザ写本)の発見からコリント書のこの部分は、だいぶ時代が下がってから挿入されたのだといわれています。これだけみても、むかしに比べると、パウロの書簡の解釈は、相当変わっていますよ。」(実は、『家庭の友』2008年7月号の受け売りなのだが。家庭の友には『ベダ写本』と書いてあった。)
エホバ「そんなことは、ないと思います。」
われ「聖書全体を読んで、そう思いますか?」
エホバ「そうです。」
われ「ある一つのバージョンの聖書の一言一句を絶対的に考えることの危うさがあると思いますが。結局、人間の不完全さが、聖書にも多少反映されているわけでしょ。それでも聖書が完全な神の啓示だといえますか?」
エホバ「……」
われ「聖書には、他の書物にまさる価値があることは認めるけれど、神が聖書で伝えたいメッセージは、聖書だけ読んでいても、理解できませんよ。」
エホバ「そんなことは、ありません。結局あなたは、聖書が絶対だと認めないから、そういうふうに考えるんです。」
われ「じゃあ、聖書が絶対だというのは、どこに書いてありますか。」
エホバ「すべてが霊感によって…」(1コリント2:13)
われ「霊感の働きによるから、たしかに大切ですけれど。でも、それが絶対だとは、聖書のどこにも書いてないでしょう。どこに書いてありますか?」
エホバ「さあ。」
われ「さっきの話に戻るけれど、人間が書いた書物のほうが、神が直接創造した人間よりも大切なんだとか、聖書が他の啓示よりも勝っているなんて、聖書のどこに書いてありますか?」
エホバ「さあ、どうでしょうか。ちょっとわかりません。」
われ「聖書だけ読んでいても、その答えは出せないでしょうね。」

ところで、きょう気がついたのだが、だいたいエホバの証人は、3点ほど矛盾をつかれると、退散する。スリーストライク・アウトだ。エホバの○○監督って、教団で専門の教育を受けているらしいのだけれど、わしのような無学な平信徒にすら論駁できないわけだ。カトリック教会に例えたら、教義について岡田大司教が異端と議論して、異端が勝つということでしょ。そんなのありえないよね。

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